数学のコンテンツで避けたい7つの言い回し ①
ソフトウェアエンジニアの宮坂です。
モノグサ社は、記憶のプラットフォームであるMonoxerのシステムを開発しています。さらに、システムだけでなく、そこに載せるコンテンツの一部を制作しています。
私はモノグサ社に来る前、10年くらい数学の教材編集をやっていました。その経験もあって、モノグサでも少し、コンテンツ制作に関わっています。
コンテンツを制作するとき一番大事なのは、もちろん内容です。コンテンツの目的をはっきりさせて、その目的に合うように文章を書くことが大事です。
そのためには、言い回しや書き方の少しの違いにも気を配りたいです。
モノグサ社には、「細部にこだわる」という行動指針があります。細部をないがしろにすると、コンテンツは質の低いものになります。
数学のコンテンツ制作の中でも、一度書いた原稿の言い回しが気になって修正することは多いです。そこで、以下何回かにわたって、数学のコンテンツ制作でよく見かけて、修正する事例を紹介しようと思います。
そういえば、エンジニアは、こういった「やりがちな悪い例」のことをよくアンチパターンと言います。この記事は、数学教材ライティングのアンチパターン紹介だと言えそうです。
ベテランの方にはつまらないかもしれませんが、数学教材のライティングや編集を最近始めた方には、ご参考になるんじゃないでしょうか。(また、おそらく数学以外にも通じるところは多いと思います。)
1. ならないときの「となる」
数学の教材で、「となる」という言い回しを使うことがあります。たとえばこのようなものです。
見ると、4箇所に「となる」が出てきますね。その中には、不自然なものもありそうです。
どれが不自然なのかは、意見が分かれるところかもしれません。 私は、3つめと4つめの「となる」が不自然だと思います。
「となる」という言い回しは、「何かをした結果そうなる」というときに使うべきだと思っているからです。
その観点で、先ほどの例を見てみましょう。
1つめの「となる」はどうでしょうか。
これは「式をおいた結果」なので、「なる」と言って違和感がありません。
また、2つめの「となる」も大丈夫です。
これは、「(1) の考察の結果、 3 の倍数になる」ということです。これも、「となる」で良いといえそうです。
では、3つめの「となる」はどうでしょうか。
これには違和感があります。
6 が 3 の倍数なのは当たり前であり、何かの処理や検討をした結果ではありません。実際、前後の文章を見てみれば、 3 の倍数に「なる」という要素は書かれていません。なので、ここは「である」にしたいところです。
ただし念のために言えば、「当たり前」というのは、ケースバイケースで変わるものです。
たとえば、もし教材が「倍数」を学び始めた人のためのものであれば、一例としてこのように書くかもしれません。
これは、読者にとって「6 は 3 の倍数」というのが明らかではなく、ある考察の結果「そうなる」という事柄だからです。
このときは、「となる」でも違和感はないでしょう。
しかし、今回例にあげた教材では、6 が 3 の倍数ということについて特に考察をしているようには書いていません。 つまり、筆者としては、読者には「何かの考察から導かれる結果」というのではなく「当たり前」と認識してもらうつもりだということです。
そうであれば、ここは「である」とすべきです。
同様のことが、4つめの「となる」についてもいえます。
ここでは、「3 の倍数から 3 の倍数を引いたものは、3 の倍数」という考察をしています。 この考察が、どれほど大それたものか、というのが論点になります。
もし、大それた考察の結果だというなら、「となる」と書いても良いでしょう。
しかし、この文例では考察を「よって」という一言で済ませています。 つまり、読者にとって特に難しいことではなく当たり前と考えているわけです。
それなら、「である」のほうが良いでしょう。
以上をふまえて修正すると、このようになります。
なお、2つめの「となる」については、もしかすると異論があるかもしれません。
先ほどの検討では、これは「となる」で違和感がないだろう、と言ったところでした。 なぜなら、「3 の倍数」というのは、考察によって導かれる結果だからです。
しかし…。
ここで起きたことを正確に言えば、「 3 の倍数になった」のではありません。単に「 3 の倍数であることが判明した」だけです。
もちろん、たしかに筆者や読者の視点では、考察の「結果」として「 3 の倍数になった」と思っているのかもしれません。 しかし、数学的な真理としては、 $${n(n+1)(n+2)}$$ は、常に 3 の倍数です。 私達が考察をしても、しなくても、値が変わるわけではありません。 3 の倍数になったり、3 の倍数ではなくなったりするわけではありません。
なので、ここに「となる」を使うのは違和感があるというのが、考えられる指摘です。
私もどちらかといえばその指摘に共感します。
なので、もし他の人の原稿の修正をしているのではなく自分で最初から書いているなら、私は「である」を使いそうです。
全体として、おそらく私はこのように書くと思います。 (1つめも「である」で良いので、「である」にしています。)
「となる」と「である」で迷ったら、たいていは、一律に「である」にしてしまって大丈夫です。
雑に言ってしまうと、実際のところ、「となる」の意味は「である」と同じです。 ただ、そこに「何かの結果である」というニュアンスを追加したものが「となる」なのです。
なので、余計なニュアンスが不要だと思えば、「である」にしてしまって良いわけです。 迷ったら「である」にしましょう。
ところで、話が変わりますが、俗に「バイト敬語」とよばれるものがありますね。 文の末尾の「〜です」や「〜でございます」の代わりに、何でも「〜になります」と言う語法のことです。
バイト敬語は、よく非難されたり、馬鹿にされたりしていますが、私は、別にそれ自体が悪い存在というわけではないと思っています。 あれは、文法を簡素化して、独特の言い回しにすることで、日本語(特に敬語)に慣れていない人でも最低限の接客ができるようにしているものです。 その意義は理解していますし、もっと世間にも意義が理解されるべきだと思っています。
ただ、一方で言葉のプロであれば、やっぱり何かに「なる」ときだけ「〜になります」という言い方を使って、その他のときには、それぞれの意味に合った言い回しを使いたいものです。
数学の「となる」にも同じ空気を感じています。 私達はなぜか、特に「なる」という要素がなくても、単に「である」と書くことになんとなく不安を感じてしまい、「となる」と言ってみたくなるのかもしれません。
あるいは、「となる」と書いている本人の気持ちとしては、実際に「なる」という気持ちなのかもしれないとも思います。
実際、問題や解説を執筆しているとき、私たちは、初めはなかったものが形になり、文字として現れてくることを経験します。 それを見ていると、執筆の「結果」として「なる」ともいえそうです。その観点からは、そこに「なる」の要素を感じてしまうことには、たしかに共感できます。
しかし、それはあくまで執筆を行っている筆者としての感覚です。
ニュアンスを決めるための要素になりそうなものとして、「筆者の感覚」「数学的真理」「読者の感覚」という大きな3つがあります。 そのうちでは、筆者の感覚というのは、最も無視すべき要素であるはずです。
もちろん筆者の感覚というのは、自分の感じている感覚なので、それをあえて無視するのは簡単なことではないかもしれません。
でも特にMonoxerでは、スマートホンやタブレットの小さい画面の中で、限られた文字数で意図を伝える必要があります。
そのために、どれだけ読者の気持ちになれるか。 私達の腕の見せどころといえそうです。
モノグサ株式会社では一緒に働く仲間を募集しています。
少しでも興味を持っていただけた方は、ぜひお話しましょう!